心臓リハビリテーションのまにまに

心臓リハビリテーションを10年以上している心リハ太郎が日々考えたり思ったりしているエビデンスのあることないことをつらつらと書いています。

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終末をどう迎えるか、あなたは決めていますか?

こんにちは、心リハ太郎です。

cakesによい記事が掲載されていたのでご紹介したいと思います。

「自己責任」のアメリカが教えるシビアな終活プラン|アメリカはいつも夢見ている|渡辺由佳里|cakes(ケイクス)
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著者の渡辺由佳里さんはアメリカ在住で、日本人の視点からアメリカと日本の社会や文化の違いを眺め、ハッとする視点を提供してくれます。

今回は、アメリカの医療保険制度が非常にシビアであるため、アメリカ人は早くから終末医療をどうするかを決めないといけないというお話です。

渡辺さんがアメリカ人の夫と結婚した途端に夫の母に連れられて行ったのは弁護士のところ。

離婚した時に備えた財産の話だけでなく、事故や病気で意識不明になり意思表示ができないときのために心配蘇生を行うのか、誰が本人の代理で意思決定をするのかまで決めさせられ、法的な書類を作成したそうです。

渡米寸前まで結婚式とハネムーンの休暇を取るために猛烈に働き、エコノミークラスの狭いシートに長時間詰め込まれた後の朦朧とした状態で「Health care proxy(健康に関する代理人)」とか「 Power of Attorney(日本では『委任状』と訳されることが多いが、ここでは代理権を有する者のこと)」という聞き慣れない単語だらけの説明を聞き、よく理解できないままに意思決定をして書類にサインをした。

あのまま交通事故とか病気で自分が意思表現をできない状況になっていたら、「いや、あのときにはちゃんと理解していなかったので、それはしないでください!」と心の中で叫んでいたかもしれない。でも、それでは手遅れだ。

今振り返るとけっこうゾッとする話だが、日本のネットで熱論を交わしている人たちも、自分自身の「延命治療」や「死」についての認識は、28年前にカルチャーショックを受けた私とそう変わらないのではないだろうか。

日本であれば考えもしなかった自分の終末医療について、アメリカ人と結婚したその瞬間に意識させられたという衝撃の体験。

ここから、人間の終末とは、非常に個性あふれるものだという話になります。

「延命治療」や「死」は、すべてのケースがユニークであり、当事者がそのときになってみないと何が一番良いことなのかわからないからだ。しかし、たいていの場合、「そのとき」になると、当事者が意思を伝えることができなくなっている。そこで、第三者が当事者の意思を勝手に推察して代弁することになる。

どんな状況でもなるべく長く生き続けたい人もいるし、QOLが低くなって生きている楽しみがなくなったら延命治療をやめてほしいと願う人もいる。友人の母親が70代後半で喉頭がんに罹患したとき、5年生存率は50%ほどあったにもかかわらず、「私は良い人生を送った。治療はしない」と治療を断った。つまり、どんなに正しそうな意見であっても、個々のケースでは、当事者でない人の意見は「推論」にすぎないのだ。

そして、日本人は医療保険制度が整いすぎていたり、家族を頼りすぎるが故に、皆自分の終末について無責任になっていると述べられています。

ふと思ったのは「日本人はまだ『延命治療』や『死』そのものを他人事として考えられる余裕がある」ということだった。つまり、まだまだ「〜であるべき」と正論を言えるほど社会保障を信じ、家族や子供を頼りにしているのだ。

かくいう私も、かつては「健康は人権のひとつ」であり「すべての人に医療を受ける権利がある」と思っていた。だから、自分が病気になったり、死に直面したりした場合の対応について考えたこともなかった。漠然と、誰かが何かをしてくれるだろうと思っていた。

確かに、病気になっても病院に行けばなんとかしてもらえる、と考えている・・・かも・・・。

他人の延命治療に対して強い意見を持っていても、自分のことになると、どうしてほしいのかを決めていないし、誰にも伝えていない。国民の負担額を上げるのは反対だが、高齢者が最後まで心地よく生きられるケアと治療を与えるべきだと主張する。自分では何の対策も立てていないのに、いざとなったら、国や病院や家族が自分にとって最も良い方法を施してくれるべきだと期待している。

こんな甘い期待を抱いたまま生き続けることができるのは、日本の社会保障が現時点ではまだアメリカよりもずっと恵まれているからだ。

他人事の終末や死というものには強い意見表明をする一方で、自分の終末や死といったものに無責任すぎて、思考停止していると述べられています。

これは確かにその通りで、この記事を読んで、私自身も含めて、本当の意味で自分の終末についてリアルに考えている人はほとんどいないのではないかと思わされました。

だからこういう異文化との境界にいる方のお話って好きです。


心不全でも、緩和治療の考え方が出てきていますから、死の告知ということがおそらくどんどん増えてくるだろうと思います。

AHA/ACC心不全ステージの考え方でいけば、心筋梗塞が発症したステージBの時点で、死期が早まりつつあるかもしれない、といった話をしておき、自分の終末について考える機会を提供してもよいのかもしれないとさえ思います。(受容の問題やストレスの問題もあるので急性期でなくもう少しあとがよいように思いますが)


下手をすれば高血圧や糖尿病などのステージAであってもそういう話をしておいてもよいのかもしれません。

そうすれば国民のかなりの割合が考えておいた方がよい話になりますね。



これを読んでいるあなたも、一度自分の終末についてリアルに考え、配偶者や家族にどうしたいのかを本気で話しておいたりしてみてはいかがでしょうか。