心臓リハビリテーションのまにまに

心臓リハビリテーションを10年以上している心リハ太郎が日々考えたり思ったりしているエビデンスのあることないことをつらつらと書いています。

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思い込みを取り払うための考え方

こんにちは、心リハ太郎です。

アインシュタインの言葉に
「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」
というものがあります。

この言葉を聞いて、自分が当たり前だと考えていることが、単なる思い込みに過ぎないと気づくことができれば、間違いなくその人の世界は広がります。

リハビリテーションを含め、医学に関わる方は、10年前の常識が現在の非常識になることも多く経験しているのではないかと思います。

このような単なる思い込みによって常識とされてきた考え方から抜け出すためのヒントになりそうな記事が週刊ダイヤモンドオンラインに掲載されていましたので、引用して紹介します。

「考える」と「深く考える」の違いは何か | イノベーション的発想を磨く | ダイヤモンド・オンライン

ただ考えることと、深く考えることは違うのだという内容です。

川上氏は、「深く考える」習慣をつけるために「物との約束」と「人との約束」の区別を勧める。

「物との約束」は物理現象によるもの。例えば走行中の電車から落ちると怪我をするのが「物との約束」にあたる。

 一方「ボタンを押すとドアが開く」「走行中はボタンを押してもドアは開かない」などは「人との約束」だ。あくまで人がそうしようと決めて仕組みを作ったからそうなっている。「人との約束」には人の思惑が絡む。

「物との約束」には人間の意思はほとんど関係しない。したがってしっかりとした科学的な裏づけがあれば破られることはない。しかし「人との約束」は破られる可能性がある。

 現代社会は、ありとあらゆる物事が「人との約束」で成り立っている。

スーパーマーケットに行けば、生活に必要なものはたいてい手に入る。売られている食料品はすべて安全に食べられる。スーパーへ行くのに使う電車やバスなどの公共交通機関は、遅滞なく定められたルートで乗客を運んでいる。すべて「人との約束」だ。

 電気・ガス・水道といったライフラインや、インターネットや電話回線が正常につながっているのも「人との約束」だ。お金の価値ややりとりの仕組みもそうだ。

 これらの「人との約束」は、いずれも絶対的ではなく「破られうる」ものだ。スーパーの食料品が安全であるとは限らない。公共交通機関もしばしば遅延する。

 こうして、世の中のさまざまな物事が絶対的ではない、と気づくことが「深く考える」きっかけになる。目の前の事象は「物との約束」か、それとも「人との約束」なのかを判断し、後者であるならば、それを疑ってみることだ。

一般的とされている治療法も、あるいは医学的なガイドラインでさえも、実は上の記事で言うところの「人との約束」であることが多々あります。

特にエビデンスレベルの低い、プロフェッショナルの意見というものは、単なる思い込みに過ぎない可能性が高く、今後のより高いエビデンスの出現により真逆の考え方になるかもしれません。

例えばβ遮断薬が心不全に禁忌であったのが、標準治療薬に変わったように、です。

また、現在エビデンスがあるとされている治療法でさえも、より長期の調査やエビデンスレベルの高い研究、医学的な技術の進歩により、そのエビデンスが無効になる可能性さえあるわけです。

決してエビデンスを否定するわけではありませんが、純粋な自然法則によって成り立つエビデンスとそうでないもの(人との約束に類するもの)とがあり、特に後者は今後常識ではなくなるかもしれないということも考えておいてもよいかもしれませんね。

また、自分にとっての常識が他人にとっての常識ではない、ということを常に意識しておくことで、患者さんや医療職とのコミュニケーションが改善する可能性もあります。

「こうでなければならない」と思っているあなたの考え方こそが視野狭窄の原因であり、自分や患者さんを苦しめているかもしれません。

あなたにとっての常識は、実は思い込みではないでしょうか?

ぜひ疑う心を持ってみて下さい。

ではでは。